Q.1 トッカビはいつ頃、どんな目的で設立されたのですか?
1974年10月、小さな長屋から「トッカビ子ども会」の活動がスタートすることになりました。
在日コリアン青年の交流がはじまる
トッカビが誕生した八尾市の安中地区は、当時、地区内居住者のうち在日コリアンが約1割を占め、竹渕地区に次いで2番目に多い地区でした。またこの地区は、部落解放運動が、1960年代半ばから起こり始めたところでもありました。そういった中、部落解放奨学金の奨学生の集まりである「部落解放安中高校生友の会」に入会していた何人かの在日コリアン青年が、高校卒業後も交流を持ち始めていました。青年たちは、その集まりを「無窮花(むくげ)」と名付け、同じ立場だから抱える悩みを交流したり、在日コリアン問題学習会などをしていました。
その無窮花の活動について、会報No.1(1974年5月14日発行)には、次のようなことが書かれてあります。
私達在日朝鮮人青年は、これからあらゆる差別と迫害の中で生きてゆかねばなりません。厚い差別の壁の前である者は自分のことをかくしつづけ、ある者はやけになってしまう。そして結局は、日本人になり切ろうと努力します。しかしそれで本当の人生が送られるのでしょうか。他人をあざむくことは、結局自分自身をあざむいてしまうのです。私達朝鮮人は何も悪くないのに逃げることによって結局は「朝鮮人は悪い」ことを認めることになってしまいます。つらいこと、悲しいことそして喜びをみんなでわけあい差別と闘う。そのために「無窮花」をつくりました。
無窮花会報No.1(1974年5月14日発行)
非行の背景に影を落とす差別
1974年の春、安中地区では、地区内の中学生の非行が、大きな問題となっていました。実はその中に、コリアンの生徒が多くいました。その非行問題に対する対策会議が、地域と学校でもたれました。しかし、非行の背景が、部落問題、家庭の問題等に収れんしてとらえられようとする流れに、無窮花の青年が、在日コリアン生徒の非行の背景にあるのは在日朝鮮人問題であると問題提起し、学校の先生等に訴えかけました。これを契機に、地域と学校が一体となって民族教育を考える協議会も結成され、学校内における民族教育の必要性が徐々に広まっていくことになったのです。
さらに、無窮花の青年たちは、中学生の低学力の克服と、この社会における在日韓国・朝鮮人問題が、自分たちのしんどい状況につながっていることをとらえるべく、勉強会を発足させました。部落解放同盟安中支部青年部の好意で、部室を週2回借りることができ、そこで勉強会を行っていました。 その年の夏休みには、地域の中学生によびかけて「サマースクール」を行いました。そして、そのサマースクール終了後、日常子ども会の結成にむけて、何人かの青年、親、先生が動きだしました。なぜならば、サマースクールを通じて、明るく生き生きとした笑顔をみせる子どもたちが、2学期に入るとまた自分たちがコリアンであることを隠してしまう姿をみて、日常的に関わることのできる活動の必要性を実感したからです。その思いを実現するために、活動場所を探し求め、小さな長屋の一角を「ぼくたちの砦」にして活動が進められることになったのです。
私達がこぼした涙はけっして2度と子供達にひろわせてはならない
なぜ、トッカビ子ども会をつくったのか。その思いをつづったものが、当時、運営資金のカンパを求めるために作成されたチラシに掲載されているので紹介します。
私たち「トッカビ子供会」は、八尾の安中という被差別部落で生まれました。安中という地区には朝鮮人が多く住んでいて、その大半がきびしい差別のため不安定な暮らしをいとなんでいます。子供達は、小学校から中学校にかけて自分が朝鮮人であることを知りはじめます。
しかしそれは、かならずしもおだやかなものではなく、日本人から差別され、ぶじょくされることによって、『汚いもの』『見下すもの』『そこから逃げ出さなければならないもの』として自分が朝鮮人であることを自覚します。
この様な激しい状況の中で子供たちは、非行にはしったり、勉強がいやになったり、かたいからにとじこもったりして、ゆがめられた人生を歩むことになるのです。
そこで、私達安中の朝鮮人青年は、自分たちの弟妹たちが、せめて自分の祖国や民族にほこりをもてるようにしたい、私達がこぼした涙はけっして2度と子供達にひろわせてはならないという一心で『トッカビ子供会』をつくるはこびになりました。
当時のちらしより